一生、人生、一向聴

 お久しぶり。日記を書きに戻ってきました。もうPCのバッテリーが心もとないので手短に済ませようと思います。

 

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 バクチは死ぬことの疑似体験だといった人間がいるらしい。しかし、死ぬこと(行為)というものは死んでいること(状態)とは異なり、むしろ生の終端として定義される以上、生と死というのは隣接している概念であると捉えるべきであって、つまりバクチというのは人生の疑似体験にほかならないといえよう。

 

 バクチにも二種類ある。動く額が①ゲームの結果によって変動するもの(e.g.麻雀、ハーツなど)と、②賭けた額によって変動するもの(e.g.競馬、ポーカー)である。私は専ら前者しかやったことがないが、最近はポーカーがマイブームになっていて、アプリでSPIN&GOをひたすらやっている(リアルマネーはかけてないよ!神に誓って)。

 

 それで、ポーカーをプレイマネー(実際の金と結びつかないゲーム内通貨)でプレイしていると、ただただ前に出てくるだけのプレイングスタイルの人間がいる。自分の手札がどんなに弱くても高確率で高いベットやオールインをし、しっかり丸裸になっていく人間である。フィル・ゴードンの教本なんかを読むと、そういう人間は現実にも存在するらしい。不動産や何やらを持っていて、カバンにドルの札束がたくさん入っていて、毎回それをひとつづつテーブルに置いてテキサス・ホールデムをやっているのだそうだ。

 

 逆に、金のない人間というのも攻撃的な人生のプレイスタイルになるだろう。俗にいう、「無敵の人」というやつだ。僕は高校の頃から、そうやって生きていこうとつとめていた。自由奔放で、触れば何が起こるかわからない危うさを秘めたものをクールで崇高だと考えていた。今思えば、うん、やっぱり楽しかったな、あれはあれで。

 

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 「守るものができる」という言い回しがある。お前、嫁さんができて丸くなったな。そんなこと言われる日が僕に訪れるかどうかわからないけれども、僕に言わせてもらえば、それは個人差です。守るものが出来てなお生き方を曲げない人間を僕はたくさん見てきて、それらは幸せになったり、不幸せになったりしてきた。

 

 人生とはバクチそのものだ。結局配牌とツモ次第。

 

 

 

 

 

 

 

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 ブラックモンブラン美味しい

 なにわけわからないこと書いてるんだろ

 寝よう

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