講義、1014

 

 かつて、狂気の沙汰を表現しようと思った。ある時はシュルレアリスム的表現に傾倒した。またある時はピンク・フロイドを、キング・クリムゾンを、エマーソン・レイク&パーマーを聴き漁った。あるいは太宰を読み、三島に没頭した。

 

 人間というものは不思議なものでね、なんと(想像するだけで恐ろしいことだけど)感情などというものが備わっている。あ、感情を知らない人の為に説明しておくと、人間という生物は、この感情というある意味形而上の、ええ、その実際は単なる脳内の電気信号にすぎないわけだけれども、それにもとづいて目から汗が出たり出なかったりすると、そういう代物。これは全くの人間のシステムのバグというしかないんであって、というのもルイ16世の処刑以来理性というものを第一に信奉してきた我々進歩的近代人にとって、まさか、感情などという得体のしれないものに肉体というものが支配されているなどということがどうして信じられようか、って話ですよ。

 

 人間は狂気を獲得する前に、まず正気を獲得した。ムンクも、ゴッホも、生まれた時から統合失調症だったらあんな絵は描けないだろう。君はどうだ?18年間温室育ちのお前が「狂気」を演出しようというのなら、それは全く荒唐無稽な話だ。

 

 しかし、あるいは、感情というものは人生に好影響をもたらしてくれることもある。あの日のランチが美味しかったのは、君の味蕾の機能だけのおかげではないだろう?

 もしくはこう言い換えてもいい。人間はこの21世紀を迎えて、理性ではなく感情を崇拝する宗教へと改宗するべくあるのだと。これは何も驚くような話ではない。太古を思え。その細胞のひとつひとつに刻まれたミトコンドリアは、出アフリカ以前、イブから延々と続くホモ・サピエンスの儀式の記憶を呼び覚ますべきだ。

 

小学校の手習の授業で先生に言われたことが思い出される。『芸術表現というものは全て、ある一定以上の研鑽・努力・蓄積によって至るものであって、素人がそういう風に見えるように書いた手習など一文ほどの価値もありません』

感情と理性は実は二項対立にあるのではなくて、ともに同じ極に存在する、のかもしれない。理性は感情を一方的に押さえつけるのではなく、感情を客観的にとらえて、乗りこなすためにある、のかもしれない。

 

 納得してもらえないなら、じゃあ、そうだな、仮に君の前に超絶可愛いハイスペック美少女が……だから、仮定の話だよって。美少女が現れたとして。まあ、そう、個人差はあれ、多少なりともそれに惹かれるわけで。それで、そこにおいて感情と理性というのは二項対立の関係にあるわけだ。感情というものが君をその美少女の方へ向かわせる、走光性と言ったらいいだろうか、そういう性質があるとしたら、理性というのはそれをおしとどめる、感情を押しとどめる負の性質を持つのであって、……え、話が長い?ゴメン。じゃあ、最後に一つだけ、簡潔に。

 

 大好き。おやすみ。

 

 

 感情を乗りこなすためには君はあまりにも若く、拙く、感情に翻弄されすぎている。でも、いつかはできるようになるかもしれないね。これから先、いろいろなことがあって、感情に左右されたり、されなかったり、本当にいろいろなことを体験して、それからそのあと、君と笑っていられたら、どんなにか幸せなことでしょうか。